おとうと。

最初から、こういう日が来ることはわかっていたはずなのに。

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15年前。

その頃わたしは、高校は卒業したのだけれど入れてくれる大学がなかったので、漠然とした不安と周囲の「ともかく今は大学受験に専念して」な視線に耐える日々を送っていた。
元々受験勉強など好きではないし、1年間の生活のすべてを捧げる価値のあることとも思ってなかったので、それなりに楽しく過ごしていた。けれども、先行きが見えない不安はわたしや家族にとって暗い影となっていて、なにか明るい話題を求めてもいた。

そんな頃、彼はやってきた。

初夏のこと。庭をねこが通り過ぎていくことがよくあって、父はよくそれを眺めていた。
「今日あのねこ、ハンティングしてたよ。口にネズミを咥えてた」
「へ〜。頑張って生きているんだねぇ」
そんな会話をしたのを憶えている。それがたぶん、最初の出会いだったのだろう。

その晩、近くの資材置き場で火事があった。
火の粉が飛んでくるほど近いわけでもなくでも激しく燃えているのはなかなかない経験で、家族も近所の人たちもパジャマ姿でやじうま見物に励んでいた。
火が鎮まったのはすっかり真夜中になってからで、危険もないようなので部屋に戻って寝ることにした。
すると、庭から大きな鳴き声が聴こえてきたのだ。

にゃあ!にゃあ!にゃあ!

おそるおそる窓を開けて声のする方向を確かめる。物音に気づいた母がやってくる。
「何してるの?早く寝なさい」
「聴いてごらん!ねこの声がする」
すぐに母もその声に気づき、庭に出ていくと草むらの中から小さなねこの仔を取り上げた。父が昼にねずみだと思ったのは、母ねこが産まれたばかりの仔ねこを運んでいく姿だったのだ。計ってみたら体重はわずか85gだった。

そのままにしておくと烏の餌食になること必至だったので、母ねこが迎えに来るまで家に置こうということになった。母ねこは火事がよほど恐ろしくて逃げてしまったのか、二度と姿を現すことはなかった。

こうしてなしくずしに家族の一員となってしまった彼に、料理とアルコールと無駄話を浪費した家族会議で名前をつけることとなった。「ノラはどうで しょう?」「トラとか」「ねこといえばタマ」などといった平凡な意見を押しのけ、わたしの弟であるという両親の主張から「茂二」と書いて「もじ」と呼ぶこ とに決定した。漢字表記だとあまりに笑えるので(某MLで爆笑されたこともある)、普段は平仮名で書くことにした。

生後間もないねこの仔を育てるのはとても難しいと何かで読んで知っていたのでそう長く生きられないだろうとのわたしの予想に反し、もじはペット ショップで買ってきたねこ用粉ミルク(などというものがあるのだ)を飲んですくすくと育っていった。目も開かないうちから前脚でしっかりと哺乳瓶を抱え、 空腹を訴えてはしっかりと飲む。最初は自分で排泄もできないので、指の腹で刺激をしてあげる。日々世話をしているうちに、生命の強さを教えられるように感 じていた。

目が開いてねこらしくなってくると、かわいらしさも増してきた。買ってきたばかりのまだ大きすぎるねこトイレに、一生懸命登っていく姿のいじらしいこと!
子ねこはよくじゃれるものだが、ひもやベルト、TVのリモコンから果ては丸めた靴下まで、さもないものをおもちゃにしてはよく遊んでいた。
トイレに入っていると、ドアの下の隙間から前脚を入れてくるのだ。こちらもせっかく遊んでくれているのだからと、前脚をぎゅっと掴んであげる。するともじは、「にゃああああ!」と騒いで脚を引っこ抜こうとするのである。
不思議と家の外には興味を持たず、マンションの一室だけが彼の世界だった。

ねこがいることで家の雰囲気はすっかり明るくなった。彼と遊んでいるといつまでも飽きなかったし、話題に事欠くこともなかった。

その冬、わたしの受験もひと段落し、発表を待つ間10日間ほど家族で旅行に出かけた。もじは連れて行けないので動物病院に預けることになった。
旅行から戻りもじを連れて帰ると、彼は半径数百mに響き渡るような大声で鳴き続けた。初めて見る外の世界はとても恐ろしかったらしい。
それまではひとりで廊下で寝ていたのだが、その日からわたしの足の上に乗っかって寝るようになった。朝になるとすっかり足が痛くなっているので、仕方なしに大きく足を開いて寝ることにしていた。股の間が彼の指定席になった。

誰に似たのか食いしん坊だった。ある日、物置部屋の鍵を閉め忘れて(もじが勝手に入らないように、部屋の鍵を閉めて出かけるのが習慣となっていた)出かけてしまい、帰ってみるともじはドライフードの袋に頭を突っ込みつまみ食いを続けていた。
あわてて袋から引っ張り出すと... ドライフードだけに腹の中で膨れたのであろう、お腹だけを上に向けてひっくり返って寝てしまった。
よほど苦しかったのだろう、以来、食べ過ぎるということはなかったと思う。
マグロにはほとんど興味を示さなかったがカツオには目がなく、カツオの刺身を買ってきたときには少しわけてあげていた。声を上げて楽しそうに食べるのである。後には、鰹節をキャットフードに少しかけてあげないと食べなくなってしまった。

一度、彼に殺されかけたことがある。
もじが1歳になる前の春、わたしは椅子に腰掛けて耳掻きを使っていた。
その耳掻きの先には小さなマスコットがぶらぶらと揺れていて... いつの間にか近づいてきたもじは、たまらずそのマスコットに飛びついた!
大声をあげてわたしは椅子から落っこちた。耳から血がだらだら流れ、死ぬかと思った(※そのくらいじゃ人間死にません)。

1年も経つとすっかり大人のねこになっていたが、くりくりとした目はいつまでも子ねこのようだった。鏡を見ると不思議そうな顔をし、トイレから出 るときはタオルで手を拭き(キレイ好きなのだ)、ワイングラスで水を飲む。どこかねこらしくない生活様式で、我が家の一員としての地位を固めていた。

わたしのピアノを聴いているのも好きだったようで、ドビュッシーやフォーレを弾いているとピアノの上でだまって聴いてくれたりした。ある日ショパ ンのソナタ2番を弾いたところ、よほどわたしの演奏が下手くそだったのかそれとも曲が嫌いだったのか(たぶん前者)部屋中を走り回った。

やがてわたしも結婚して家を出ることになり、もじと一緒に寝る日々は終わりを告げた。
もじはわたしの両親のそばで寝るようになった。布団に入ったりもしたようだが、両親とはわたしよりは少し距離を取っていたようである。
わたしにも子どもができた。赤ん坊のうちに起こるトラブルの多くはもじを育てるときに経験済みだったので、不安なく子育てができた。もじに教わったことのひとつだと思う。

その子どもたちは、やはりねこにとっては天敵だったようで、子どもを連れて実家に帰るともじは物置部屋に逃げ込んでしまうのだった。子どもがいな いときにはわたしに擦り寄ってきてくれたが、時々慣れない匂いを確認するような仕草をしていた。何年かしてすっかり慣れると子どもたちにも近づくように なってくれたが。
妻にしてみると、もじは「抱っこさせてくれないねこ」だったようだ。彼が本当に気を許していたのはわたしと両親だけだった。

そのもじが体調を崩したのはほんの数日前のこと。元気がなくなり、大好きだったごはんも食べなくなってしまったのだという。
ずっと廊下で寝そべっている彼に近づくと、すぐに頭をあげてまんまるい目をこちらに向けてくれる。その目にはでも、しっかりと生命の光があった。

8月29日。3日間苦しんだ後、彼は逝ってしまった。
看取った両親の目の前で、大きく伸びをすると、そのままだったそうだ。

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彼は生まれたその日に自分で未来を切り拓いた。
わたしたちに愛された15年間が彼にとって幸せなものだったと信じたい。

わたしに今できるのは、もじと呼ばれたねこがこの世にいたことを、拙い文章で伝え残すことだけ。

(Sep. 1, 2006)

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